魚津市の歯医者・インプラント治療 やまざき歯科クリニック

院長・スタッフ紹介

院長紹介

院長 山崎聖也

院長ごあいさつ

私、山崎聖也はクリニックのある魚津市本江で生まれ育ちました。大学時代を遠く離れた岡山の地で過ごしたため、卒後も中四国地方を中心に診療しておりましたが年を追う毎に「地元へ帰りたい!」という思いが強くなり、故郷である魚津市にて開院するに至りました。歯科治療は痛みのイメージが強く、出来れば受けたくないものです。しかし、放置しておいて良くなるものではありません。虫歯や歯周病は適切な治療を行えば改善、予防出来るものなのです。また、不幸にして歯を失った方もその後の治療法は色々あります。その患者さんに一番適した治療を共に考え、少しでも快適にお食事出来るよう提案させて頂きます。現在お口の中でお困り事がある方は何でもお気軽にご相談ください。メールでのご相談も受け付けております。

院長 山崎聖也

院長の経歴

1975年12月 富山県魚津市本江に生まれる
2003年3月 岡山大学歯学部卒業
2003年4月 岡山大学医学部歯学部附属病院補綴科(クラウンブリッジ)にて勤務
2009年1月 Sahlgrenska University Hospital, Mölndal & Teamdagnelid ( Göteborg,Sweden )へ留学
2011年3月 岡山大学大学院医歯薬学総合研究科インプラント再生補綴学分野にて学位取得
2011年4月 医療法人淳和会川添歯科クリニック(広島)勤務
2014年10月 やまざき歯科クリニックを開院

院長の生い立ち

歯科医院に限らず、初めて病院に行くときには「どんな先生なのかな?」「怖い先生だったら嫌だな」といった不安がつきものです。何もわからない状態で受診するよりも少しでも「山崎聖也」という人間を知ってもらうために生まれてから開業に至るまでの生い立ちを簡単に紹介させて頂きます。

幼少期から小学生時代

 19751224日クリスマスイブの日に、富山県魚津市にて誕生しました。生まれた日にちなんで、そのまま聖夜→聖也と命名されました。今でこそ“せいや”という名前は多く見られるようになりましたが当時としては斬新な名前だったのではないでしょうか?僕が小学生のとき、『聖闘士星矢(セイントセイヤ)』という漫画が大ヒットして友人からよくいじられたものです。

 正直、未就学児期の記憶は全くありません。かろうじて自分の意識の中で記憶のあるのが小学校に入学してからのものです。どんな子供だったかは写真からご想像ください。魚津市立本江小学校(現在は統合してよつば小学校へ改名、所在地はそのまま)に入学し長い小学校生活を開始しました。小学校時代は教育熱心だった母親のおかげでいわゆる優等生だったように思います。イヤイヤながらも勉強はかなりやりました(やらされました・・・笑)。そんな中でも、近所の団地の友達と毎日暗くなるまで野球をしたり鬼ごっこをしたり、缶蹴りをしたりして遊んだことが懐かしく思い出されます。5年生の時に任天堂のファミリーコンピューターが発売され、今に続くTVゲーム時代の黎明期となりましたが、僕自身はそんなにハマることはありませんでした。最近子供と一緒に任天堂Switchで遊ぶことがありますが、あの頃のゲームと今のゲームを比べると恐ろしいほど時代は進化したものだなぁとつくづく感心させられます。低学年の頃より喘息持ちで病弱だったため、小児科の先生に勧められ3年生頃から水泳を始めました。スポーツ少年団に入って、週3回、泳ぎに泳ぎまくりました。その甲斐あって喘息も克服しましたし、水泳においても好成績をあげ、よく表彰されました。6年生になり、進学のことを考えた時に、2個上の姉の影響もあって(姉が楽しそうに通学しているのを見て)公立の中学ではなく富山大学教育学部附属中学校を受験し合格することができました。今から思えば、この進学が僕の人生を大きく変えた出来事なのかもしれません。

中学生時代

 僕の住む魚津市から富山市にある附属中学校へは電車で30分プラス徒歩20分程度かかります。毎日の電車通学でしたが同じ電車に乗る友人達と楽しく通えました。また、小学生までは魚津市の田舎町で近所の友達と狭い社会で生活をしていたため、大きな富山市内に出ること自体が新鮮で、行動範囲も広がり視野も一気に大きく広がった時期でもありました。弱小バドミントン部に所属して3年生の時にはキャプテンをやっていたそうです(僕は忘れていましたが後輩から言われて最近知りました・・)。授業や修学旅行をはじめとした学校行事、何より友人たちと過ごす学校生活がとても楽しく、とにかくキラキラ輝いて見えた3年間でした。今でも仲良く、家族ぐるみの付き合いがあるのも中学校時代の友人が多いですね。思えば将来の夢として『歯科医師』を意識したのもこの頃だったと記憶しています。姉が『医師』を目指していたのと、昔から細かいプラモデル作りなどが好きだったこともあり母親に勧められ「歯医者になったら?」という勧めでその気になったような気がします。今から思えば手先の器用さを使って繊細な作業を行うのは『歯科技工士』の方ですね。今でも技工作業は好きですが、歯科医師として実際に患者さんと話ししながら治療を進めることも好きなので結果的には良かったのかもしれません。

高校時代

 中学時代はそれほど勉強漬けという記憶もありませんが、小学生時代からの勉強の貯金のおかげで県内屈指の進学校である富山中部高校に入学することができました。入学した直後は、一学年9クラスもあって活気があり部活なども始まって新入学生特有の華やかな雰囲気に心躍らされていましたが、やはり進学校だけあって授業のスピードや課題の多さについていけず勉強に嫌気がさし始めました。一旦成績が落ち始めると取り返しがつきません。授業についていけない→分からない→やらない→成績が下がる・・・といった悪循環。あれよあれよと転落していきました。反面、学校生活自体は楽しくて、体を動かすことが大好きだったので体育と部活だけは真面目にやっていました。硬式テニス部に所属し、3年生の時にはこれまたキャプテンを任され頑張りました。成績は鳴かず飛ばずでしたが今も続けているテニスの基礎を作れたのではないかと思います。そんな高校時代の1番の思い出はなんといっても体育大会です。富山中部高校の体育大会は伝統がありメディアが取材に来るほどの一大イベントです。夏休みの途中から約1ヶ月間、準備期間として体育大会一色になります。3年生の幹部学年では夜遅くまで練習や打ち合わせに励みました。その間、全くといっていいほど勉強はしませんでしたね・・(成績の良い人たちはうまく両立してやっていたんだろうなぁ)。仲間と時にはぶつかり、泣き、笑いまさに青春真っ盛りでした。体育大会が終わり秋の気配を感じる頃には受験モードに入ります。体育大会終了とともに燃え尽きた僕は受験という現実から目をそらしていたようです。とても受かる見込みもありませんでしたが、それでも歯科医師になりたいという気持ちは変わりませんでした。センター試験を終え、全く話にもならない点数でしたが記念受験として某国立大学の歯学部を受験。結果はもちろん不合格。長い長い浪人生活の幕開けです。

浪人時代

 私、何を隠そう3浪生です。高校時代、ほとんど勉強に力を入れていなかったため歯科医師になるのに人よりも随分と遠回りしました。1浪目は大阪の両国予備校で過ごしました。初めて親元を離れての寮生活、ストイックな生活をしすぎたせいか、あっという間に過ぎ去り正直1浪目の記憶はほとんどありません。成績も少しずつ伸びてきましたがスタート地点が低すぎたせいもあり1浪目は敢え無く失敗に終わりました。歯科医師になるという夢を捨てきれなかった僕は同じ予備校で再度浪人を決断しました。寮や周りの面子はガラッと変われど、同じところに2年も通うと慣れたもので心にも余裕が出たように思います。また、周りに医学部志望の友人が多く良い環境の中、切磋琢磨し受験を迎えましたが残念ながら2浪目も失敗。ある程度のところまでは学力はついたように思えたので地元に帰って3浪目を迎えました。3浪目は長きにわたる浪人疲れや自宅という環境に甘えが出たのかダラダラと過ごしてしまいましたが幸運にも岡山大学歯学部に合格することができました。この間、金銭面でも精神面でも支えてくれた両親や姉、手紙や電話で度々励ましてくれた友人達には感謝しかありません。高校時代の同級生が大学生活を謳歌している様子を横目で見つつ、妥協して他の学部に進学するという選択肢もあった中、自分の夢を決して諦めなかった自分自身の強靭なメンタルも褒めてあげたいと思います。3年間という、いわば高校生活をやり直したような長い期間を、ゴールの見えない浪人生活として体験した経験は何にも替え難い経験でした。当時はそう気にしていなかったのですが、潜在的に深層心理ではとても大きなストレスを抱えていたのだと思います。そのせいか30年近く経った今でも年に3、4回、受験に失敗する夢を見ます。センター試験に失敗した夢、2次試験に失敗した夢、不合格通知が届く夢・・その都度、涙を流しながらハッと目覚めて「あ、良かったー、現実では歯医者になれているんだった・・」と胸を撫で下ろすのです。

 世間一般的に浪人に対してネガティブなイメージをお持ちの方が多いかと思いますが、僕自身、浪人を経験して思うことがあります。特に僕の通っていた両国予備校は牢獄予備校と揶揄されるほど厳しい予備校でした。毎日の通学時間すらも学校を出た時間と寮に帰った時間をチェックし管理され、自由時間は毎週日曜日の2時間のみ外出が許されるという監禁生活。休日は14時間の勉強時間を義務づけられていました。そんな中で、全員が『大学合格』というただ一つの目標に向かって突き進む生活は一見単調で無機質に見えるものの、実際は未来ある希望に満ちた若者達が寝食を共にし、それぞれの夢やまだ見ぬ将来を熱く語り合いながら泣き笑いする、とても人間味のあふれた生活でした。この3年間の浪人時代は僕の人生の中でもゆっくりといろんな事を考え、自分自身の将来にじっくりと向き合えた一番濃く印象深い時間でした。思い出したくないこともたくさんあるけれど、テストの点数だけではなく様々な事に一喜一憂した時間は今でも僕の大切な宝物です。両国予備校は医歯薬系に強い予備校だったので社会人になってからも仕事関係でちらほら見かける人もいるけど同じ寮だったみんなや一緒に頑張っていた人達は元気かなぁ?濃い時間を共有した割にはあっさりとお別れだったので寂しいですね。当時の僕を知っている方、ぜひ連絡ください予備校生活の懐かしい話でもしましょう!(✉️clinic@ydc-uozu.com)

両国予備校時代の寮の部屋です。部屋にあるのはベッドと勉強机のみ。それだけ長時間の勉強時間を課しているにもかかわらず事務机とパイプ椅子っていうのもどうなんでしょう。窓には鉄格子・・・。まさに牢獄予備校です。ちなみに寮生活で最もタブーとされていたのが「他室侵入」です。いかなる理由でも他人の部屋に一歩たりとも足を踏み入れてはいけません。3回見つかると退学です。

毎朝、朝食の時に壁に貼ってある「今日一日素直になること・・・」という心得を呪文のように復唱させられていましたね。

大学時代

 長い長いトンネルを抜けて晴れて憧れの歯科大学生になりました。進学したのは『晴れの国』岡山県!気候も穏やか、雨もほとんど降らない、本当に過ごしやすい場所でした。3000メートル級の立山連峰と荒ぶる日本海の間で育った僕としては、マンガ日本昔ばなしに出てくるような小高い山や、波一つない瀬戸内海の景色を見るにつけ、心まで穏やかになっていったように思います。また、岡山市の街の規模が学生時代を謳歌するのにちょうど良い大きさでした。都会すぎず、田舎すぎず、なんとも絶妙な街。自転車一つあればあらゆる所に出かけることができました。思い出がたくさんたくさん詰まった今でも大好きな街です。遠くてなかなか行く機会もありませんが、これからも一年に一回くらいは遊びに行きたいと思っています。

 大学に入ったらやりたいことが山のようにありました。そのうちの一つが部活です。浪人生活で訛った体を鍛えるべく、どの部活に入ろうか迷いました。最終的にアイスホッケー部、アメリカンフットボール部、テニス部に絞りました。新しいことにチャレンジしたかったのですが勧誘された先輩方の雰囲気が良かったので高校時代から続けていたテニス部に入部することにしました。もしも新たなチャレンジとしてアイスホッケー部やアメリカンフットボール部に入部していたらもっとムキムキな体になっていたかも?興味深いです。結果的にはテニス部に入って大正解でした。大学生活6年間、テニス中心の生活と言っても過言ではないくらいどっぷりハマりました。幹部学年ではキャプテンを務め(結局中学、高校、大学とキャプテンをやりましたね・・・僕にキャプテンシーがあるかどうかは分かりませんがリーダーシップをとって人に頼られることは嫌いではないです)、50人ほどもいる大きな組織をまとめる大変さを痛感しつつも充実していました。試合に勝った、負けたはもちろんですが、いろんな人が集まる集団生活の中で、あれほどまでに喜怒哀楽を感じた時間はありません。良き先輩後輩に恵まれ、今でもOB会などで定期的に集まり居心地の良い場所となっています。

1年生の頃、テニスに明け暮れた日々

3年生の頃、若さって怖いですね・・・イケイケでした

6年生ともなると落ち着いています

大学時代は常に「黒人か?」っていうぐらい日焼けで真っ黒でした

学生生活の中でも特に印象深いのが4年生の夏休みに同級生6人でアメリカの東海岸を縦断したことです。大学生ならではのレンタカーでの貧乏旅行。行くあても決めず、気の向くまま車を走らせ旅をするという自由な旅でしたが、フロリダ半島の先端にあるキーウエストから始まってディズニーワールド、デイトナサーキット、マイアミビーチ、ケネディ宇宙センターでのNASA見学、ワシントンDCでホワイトハウスやFBI見学、ニューヨークでテニスのUSオープン、カナダのナイアガラの滝etc..と東海岸を2週間かけて満喫しました。行った観光地自体も楽しかったですし、何より気心の知れた友人たちと毎日、ワイワイと馬鹿なことをしながら旅をするのがとても楽しかったです。お金はないけど体力と時間だけがあった大学生ならではの旅で、今はあんな旅はもう無理ですね。ヘリコプターから見たニューヨークのマンハッタンの夜景は僕がこれまで見た景色の中で一番綺麗な景色として印象に残っています。

ホワイトハウスの前で

FBIの前で

ナイアガラの滝

デイトナサーキットにて

ワシントンDCのリンカーン像の前にて

同じくワシントンDC。ちょうど一年後のこの日、同時多発テロが発生。

マイアミビーチにて。痩せていたこの頃の体に戻りたい・・

肝心の学業は・・・と言いますと、僕が入学した歯学部はある種、他の学部と大きく異なります。まず、学部の人数が少ないこと。一学年、1クラスの60人しかいません(現在では40人程度に減っているようです)。しかも同じメンツのまま6年間を過ごします。授業を受けるのも一緒、実習をするのも一緒、毎日毎日6年間、朝から晩まで同じ顔ぶれで生活します。しかも、全員が同じ歯科医師になるという特殊な環境です。仲のあまり良くない学年もあったようですが、僕たちの学年は皆仲が良く、助け合いながら楽しく6年間を過ごせたように思います。今と違って出席や成績にそれほど厳しくない時代でしたので、出席は必用最小限・・・成績も赤点ギリギリの超低空飛行(興味のあった歯科の専門科目は楽しかったですよ)を続け、友人の励ましや助けもあって留年することなく滑り込みで卒業をむかえました。

卒後(大学病院編)

 歯科医師国家試験を無事に合格し、卒後は岡山大学附属病院のインプラント再生補綴学分野という医局に研修医として残ることにしました。この医局を選んだ理由は、僕自身、インプラント治療に興味があったこと、学生時代から医局の先生方がとても熱く、輝いて見えたことなど色々な理由があります。当時はまだ現在と違って卒後すぐに外の開業医に就職することはできたのですが、大学病院に所属することで研究であったり、学生教育であったり、先進的な治療であったり開業医では経験することができない事を期待して大学病院に残る事を決めました。

 大学病院勤務時代は毎日が刺激的で、とても充実していました。特に1、2年目は見るもの聞くもの全てが新鮮で昔から歯科に興味があっただけあってとても楽しかったです。「働き方改革」とういう言葉とは無縁だった当時、朝から夕方までは診療、夕方から夜遅くまで研究という毎日、夜中の12時前に帰宅することはほとんどなく、23時は当たり前、医局で朝を迎えることも数知れず。今となっては良い思い出です。学生教育にも携わって、夢に満ちた活気のある学生達と話すのも楽しかったですね。

 3年目には1年間、医局からの出向で鳥取の智頭町という山奥で分院長も経験しました。大学病院での勤務では分らないことがあればすぐに周りの先生の指示を仰げたのですが、初めて一人で診療することになり、まだまだ未熟だった僕は内心不安でした。しかし、そのクリニックの歯科衛生士さんや歯科助手の方々に色々教えてもらったり、助けてもらったりしながら何とか無事に務め上げることができました。僕の臨床の基礎は本院の院長や当時のスタッフの方々に築いてもらったと言っても過言ではありません。多忙な医局生活とは異なり、自然豊かな山奥でのんびりと生活することができて楽しい1年間でした。その後、居心地が良かったため辞めどきを失ってずるずると大学病院に勤務しました。せっかく大学に残るならと大学院へも進学しさらに4年間どっぷり大学病院での生活を送りました。今から思えばこの大学病院での医局生活は多忙であったもののとても充実した時間でした。良い先輩、同期、後輩に支えられ楽しく過ごすことができました。今でもこの時苦楽を共にした医局の先生方は家族のような存在だと思っています。

学生教育にも携わりました。学生の模型実習にて。

医局旅行での集合写真

大学院の時、ご縁あってスエーデンのイエテボリに短期留学に行くことができました。スエーデンは予防歯科やインプラント治療の先進国です。中でもイエテボリは歯科医師にとってメッカと言っても過言ではない街です。スエーデン語はもちろん英語にもそれほど自信のない中で完全に一人での海外生活、最初は不安しかありませんでしたが海外の文化、生活や他国の歯科事情に触れることができてとても貴重な経験になりました。受け入れ先のクリニックのドクターやスタッフの方々にもとてもよくしてもらい終わってみればとても楽しい留学生活でした。途中、医局の先輩が留学していたベルギーにも遊びに行ったり、初ヨーロッパの旅でしたが、街並みがとても美しく市内を歩くだけでも飽きることがありませんでした。ただ一つ心残りなのが、行った時期が1月、2月であったためまさに極寒の地、氷の世界でした。太陽も高く昇らず、9時くらいから少しづつ明るくなって15時くらいには暗くなっていくという時期。現地の方々にも「なんでこんな時期に来たの?」って笑われました。今度は夏の気候の良い時期に行ってみたいです。

同年代のドクター達と。「誰が最初に有名になるかな?」なんて話をしていました。

間近で手術も見ることができました

インプラントの権威、Ingvar Eriksson氏と

若者が集まれば飲み会ですよね。万国共通です。よく飲みました。

ベルギー、グランプラスにて

『フランダースの犬』で、ネロとパトラッシュが最期を迎えたノートルダム大聖堂

卒後(勤務医編)

 大学病院に8年間勤務し、その頃に「地元で開業」という目標を明確に立てました。大学病院を辞めてすぐさま直接開業という選択肢もあったとは思いますが、やはり一旦開業医を見てみたいという気持ちもあったため、3年間だけと期限を決めて開業医で働くことを決めました。

 勤務先を探していたところ、学生時代のテニス部の一学年上の先輩から「うちで働かないか?」とのお誘いを受けました。学生時代からよく可愛がってくれた尊敬できる大好きな先輩でしたので迷わずそちらのクリニックで勤務することを決めました。学生時代から14年間過ごした大好きな岡山を離れ今度は広島です。勤務医としての生活は大学病院時代とは一変し、開業医ならではの診療スタイル、治療方法など新たな発見が多くとても勉強になりました。中でも開業医に必要不可欠な「経営概念」を学べたのはとても大きかったです。先輩にはとても優しく指導してもらいましたが、当時は先輩のお父様が院長をされていたため、優しい中にも時には厳しく(40歳近くのこの歳になってまでこんなにも怒られるものか・・と、天狗になっていた僕の心を初心に戻していただきました)ご指導してくださり今ではとても感謝しています。

 広島時代の3年間はプライベートでも激動の期間でした。遠く離れた富山での開業準備もしつつ、結婚、第一子誕生と目まぐるしく生活環境が変化しあっという間の3年間でした。バタバタと過ごす中でも広島の街を散策したり、家族でいろんな場所に出かけたりと良い思い出の凝縮された時間でした。

 当初、平成26年の2月で広島の勤務先を退職し、3月に富山に帰り4月から開業予定でしたが東京オリンピックの準備の関係で何かとクリニックの工事が長引いたせいもあり結局10月の開業となってしまいました。約半年間、人生で初めてのフリーターを経験し、通帳からあれよあれよとお金がなくなっていく不安な日々を過ごしましたが、今となっては開業に向けてじっくり準備する期間が取れたこと、当時小さかった子供や妻とゆっくりと向き合えたことはとても貴重な時間だったと思います。10月に無事開業を迎えた日にはホッと胸を撫で下ろしました。

 

 簡単ではありますがそんな人生を送って現在に至ります。

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